一章〈Start-はじまり-〉
———〝レイス〟と呼ばれる世界。
その世界には、五つの大陸と九つの国がある。
五つの大陸のうちの一つであるヒューマス大陸には、大陸全土を占めているアキリア国があり、そこは人間の国として成り立っていた。
城下町には世界で最も大きい市場があり、商業に栄え、人口が最も多く、この世界の中心と言えるような国として存在している。
その国の西方に位置するリュウシンの町には、人間の、しかも魔法を扱う魔法士を育てる、アキリア国唯一の〝マーシック学園〟と呼ばれる魔法学校が存在していた。
———リュウシンの町、マーシック学園。
早朝。
山と森に囲まれ、自然に溢れた豊かな町に朝が訪れる。
太陽が周りの山から昇ってくると同時に、町中は眩しいくらいの朝日で照らされていく。
マーシック学園の学生寮にも窓から太陽の光が入り込み、生徒達は鳥の鳴き声と同時に次々と目を覚ます。
学生寮の一つ、セキ寮の四階に部屋を持っているラリカ・シリスタリアもこの学園の生徒の一人だ。
ラリカは、ベッドの傍らにある窓から差し込む太陽の眩しさで目を覚まし、ゆっくりとベッドの上で起き上がった。
目を擦り、一欠伸(ひとあくび)をした後に、朝の支度をするべくベッドから降り、床の上に立つ。
横長の茶色いタンスから綺麗に畳んで仕舞われている、紫が基調の制服と黒いローブを取り出し、ベットの上へと置く。
まだ覚めていないボーッとしている頭を無理矢理起こすかのように両手で頬を軽く叩くと、膝まである寝間着の白いワンピースから制服へと着替えを始めた。
着替えが終わり、部屋に置いてある姿見鏡の正面に立つと、肩より少し長い銀色の髪を全て右側に束ね、すぐ隣の机の上に置いてあった白いヘアゴムで髪を括る。
最後にローブに校章の形のシルバーの記章を胸に付け、澄んだ青い瞳で鏡に映った自分の姿を確認した。
綺麗な黒いローブに、襟が紫色の白いシャツ。
首には襟の色と同じ紫のネクタイを付け、暗く紫に薄い紫の線が入ったスカート。
学園に通うラリカのいつもの制服姿が、鏡には映っていた。
「よし!」
ラリカは目覚まし代わりのように、鏡に映っている自分に向かって一声気合いを入れた。
部屋の入り口の扉に付いている金のドアノブを掴み、ドアを開け、寮の廊下へと足を踏み入れる。
廊下にはまだ数人の生徒しかおらず、辺りは静かだった。
朝食を食べるべく木製の階段を、ギシギシと音を鳴らしながら一階まで降りていき、食堂へと足を運ぶ。
まだ朝が早いせいか、食堂内もちらほらと生徒がいるのみで静かな空間となっていた。
食堂のカウンターで配膳されている朝食を受け取り、空いている席に適当に座り、作られた朝食を食べる。
ラリカが食堂の席に着く頃には、静かだった食堂も、ラリカと同じように朝食を食べに来た生徒で賑わい始めていた。
セキ寮は上級生と中級生の女子生徒が暮らす寮だが、一階のみ他の三つの寮と繋がっているため、食堂にはセキ寮に所属する女子生徒だけでなく、他寮の生徒も多く集まる。
そんな光景を横目で見ながら、ラリカは今日の予定を確認していた。
やがて朝食を終え食器を片付けると、寮を出て学園の教室棟へと向かう。
教室棟は、主に生徒達が授業を行う教室が多くある建物だ。
もちろん行う授業は、この世界の常識の他に魔法士として必要な知識を学ぶ授業ばかりである。
ラリカと同じ学年の中級生達は他の学年同様に授業を受け、空き時間には実力を認められた者のみ見習い魔法士として簡単な仕事を熟している。
魔法士の仕事とは、基本的に一般人から依頼を受け、熟していくといった内容だ。
仕事と言っても、見習い魔法士であるため難易度が高い依頼は学園には滅多に回ってこない。
回って来ても実力の高い上級生に割り当てられてしまうため、中級生が受けられる依頼はボランティアのような小さな内容ばかりだ。
それに見習い魔法士と言っても、授業もあるため、中級生の中じゃ一日に仕事をする生徒は半分もいないだろう。
朝から授業を行う生徒は、ラリカと同様に教室棟へと向かっていた。
この日のラリカの受ける最初の授業は植物学だ。
学園内にある植物学の授業が行われる教室に着くと、教室内は既に何人かの生徒で賑わっていた。
楽しそうに話している生徒達を横切り、階段状になっている教室の後ろから、五列目、窓側の席に座る。
毎回決まっていない席の中で、この席はラリカの特等席だった。
窓から見える中庭の景色と流れ込んでくる日の光が、とても心地良いのだ。
後ろのほうから見る教室内はとても広く、正面の上下スライド式の黒板が一回り小さく見えるほど遠い。
それでも授業の際は、魔法により後ろの方にも見やすく黒板の文字が表示されるので、授業を受けるのに苦労することはない仕組みとなっている。
暫く窓から入ってくる朝日を浴び、心地良さから再び眠気を感じ、ウトウトし始めたところで教室に一人の中年男性が、生徒達が入ってくる教室の右側の扉とは逆側の扉から入ってきた。
少し薄汚れた白衣姿に癖毛の強い金髪。
植物学担当の教師であるフライト・ネルチス教授だ。
フライト教授が教室に入ってきたと同時に、周りにちらばりながら騒いでいた生徒達は、そそくさと近くの席に座る。
植物学では、主に薬草の種類とその効果や植物の成長過程、植物に関する魔法などの授業を行っている。
当然、フライト教授も立派な魔法士の一人であるため様々な魔法が使えるが、植物系の魔法は特に得意としている。
フライト教授が黒板の前に設置されている木製の教卓の後ろに立つと、いつも通りの授業が始まった。
「おはよう。まずは前回からの復習だ。じゃあ……ラリカ、やってみろ」
「は、はい…」
目の合ったフライト教授に名指しされ、しどろもどろになりながら返事をした。
ラリカはゆっくりと席から立ち上がり、誰にも気付かれないようにそっと軽く深呼吸をする。
「大丈夫……。一人で練習したから…」
自分自身にそう小さな声で言い聞かせながら、席と席の間の通路を通り、階段をゆっくりと降りながら一歩ずつ教卓へと向かう。
少しずつ教卓が近づくと同時に、ラリカの緊張感や不安感も少しずつ大きく強くなっていく。
ラリカが教卓の前に立つと、フライト教授は教卓の下から小さな芽が生えた植木鉢を取り出し、教卓の上に乗せた。
「この植木鉢の芽を咲かせる魔法だ。方法はわかるな?」
「…はい」
ラリカに小声で説明したフライト教授の目を見ながら、はっきりと意気込むように返事を返した。
フライト教授はラリカの目をしっかり見返しながら、意志を汲み取ると、教卓から少し横に離れ、見守る様な態勢を取る。
それと同時にラリカは一歩前に出て、植木鉢が置いてある教卓に少し近づいた。
左手を鉢の上に翳し、落ち着かせるようにゆっくりと深呼吸した後に、呪文を慎重に唱え始める。
「我の望みに答えよ。グロースプラント」
呪文を唱え終えると、鉢を翳していた手の下から緑色の魔法陣が現れる。
魔法陣は鉢を囲むように、ゆっくりと植木鉢の下まで落ちるとスッと消えていった。
ラリカは魔法陣が消えたことを確認すると、翳していた手を引っ込め、植木鉢の変化をじっくりと見守る。
暫くすると芽が次第に成長を始め、変化が現れる。
小さな芽は土の中から深緑色の葉を二枚ボコボコと出し、茎を伸ばし、蕾が出来る。
そこまでは植物は早送りしているの様に極普通に成長して行ったが、次第に蕾だと思われた部分が、棘を生やしながら風船の様に膨らんでいく。
やがて膨らんだ部分の真ん中が裂け、牙の生えた口のようなものが浮かび上がった。
「ギャハハハハハ!」
突如として、耳障りな笑い声が教室中に響き渡る。
その笑い声を出しているのは、先程ラリカが魔法をかけた植木鉢だった。
しかし、植木鉢から生えているのは花ではなく、丸い棘の付いた膨らみの部分に、大きな口と、口の中に鋭い牙が連なって生えている奇妙な植物である。
その奇妙な植物は、首であろう茎を左右にブンブンと大きく振り回しながら、二枚の葉をバシバシと土に叩きつけ、何が可笑しいのかゲラゲラと笑っている。
誰がどう見ても、ラリカの魔法は失敗したのだと一目で分かるだろう。
ラリカは、教卓の目の前で下品に笑う奇妙な植物を呆然と見つめながら立っていた。
内心は、大きな溜め息を吐きたい気分だろう。
そんな思いが隠せなかったのか、呆然と立ちつつも、ラリカは少し苦笑したような表情を浮かべていた。
そんな中、教室内は奇妙な植物を除いて静まり返っていたが、とある一名の男子生徒の笑い声によってその静けさは掻き消される。
「ぶっ…ははははは!さっすがラリカ!何だよその植物!見たこともねぇ!はははは!」
この赤髪の男子生徒──カケル・レグルスは腹を抱え、机をバンバンと叩きながら大笑いしていた。
それを合図かのように、教室内は生徒達の笑い声で溢れていく。
その中にはもちろん、ラリカが作り出した奇妙な植物の笑い声も混じっていた。
おかげで教室中から笑い声を浴びたラリカは今すぐにでもその場から逃げ出したくなるほどに、羞恥心を抱く羽目になった。
その光景を教卓の傍で眺めていたフライト教授は、小さく溜め息を吐くと、指をパチンと鳴らし、魔法で奇妙な植物を元の芽の状態に戻す。
それと同時に植物の下品な笑い声も消え、生徒達も次第に静かになっていった。
「ラリカ、お前呼び出しな」
「……はい」
フライト教授にそう言われたラリカは、すっかり凹んでしまい、力無く暗い声で返事をした後に、少し俯いたまま元いた席へと戻っていく。
ラリカが席に座ったのを確認すると、フライト教授は次にカケルへと目線を送る。
「カケル、次お前やってみろ」
フライト教授に呼ばれると、カケルは指名されたのを待っていたかのようにニヤッと笑みを浮かべた。
「はーい」
カケルは余裕そうに軽い口調で返事をし、軽い足取りで教卓へと向かう。
教卓の前へと立つと、ラリカと同じように植木鉢に右手を翳し呪文を唱える。
「我の望みに答えよ。グロースプラント」
ラリカの時と同様に、カケルの手の下から緑色の魔法陣が現れ、植木鉢を囲むように下へと降りていく。
魔法陣が消えると、芽はムクムクと少しずつ成長を始め、蕾がポン!と音を立てて開くと、綺麗な真っ赤な花が咲いた。
それと同時に生徒達のおぉ!という感嘆の声が教室に響く。
しかし、これでは終わらないとでも言うかのようにカケルが得意げな笑みを浮かべると、今度は右手の人差し指を天井へと向ける。
「フレイム」
カケルが一声、簡単な呪文を詠唱も無しに唱えると、植木鉢の下に赤い魔法陣が現れ、植木鉢はたちまち魔法陣から出てきた火柱に包まれる。
火柱が消えると、植木鉢の花は元の芽に戻っていた。
「以上」
生徒達が座っている席の方を向き、発表を終えるかのようにお辞儀をする。
すると、それを合図に教室中の生徒達がカケルに賞賛の拍手を送った。
ラリカだけはその様子を悔しがるように、机に肘を突きながら、不機嫌そうにカケルを眺めていた。
「上出来だ」
「当然っすよ」
「だが、必要以上のことはするな」
「いいじゃないっすか。このほうが面白いし」
カケルはフライト教授にそう言い残すと、自分の座っていた席へと戻って行く。
途中、不機嫌な顔をしながらカケルの方を見ているラリカに気付き、カケルは自慢するかのようにラリカに笑みを送る。
ラリカはそれを見て、カケルに対して嫌な奴と思いながら、すぐに目を逸らした。
ラリカにはカケルに返すような言葉が思いつかなかった。
実のところこういう失敗は今回だけでないのだ。
どの魔法も先程と同じような失敗ばかりで、それは同級生や教師の中ではよく知られていることだった。
ラリカは人並みに魔法が使えたことがない。
自分でもそのことが分かっているため、カケルの様子に何も言い返すことが出来ず、ただただ悔しい思いをするしかなかった。
———マーシック学園。中庭。
この学園では、自分の好きな授業を受けることができ、時間割などもある程度は自分で決めることが出来る。
今日のラリカの授業は、植物学のみだった。
その植物学の授業が終わり、ラリカは学園の中心にある中庭の噴水の傍のベンチに座っていた。
中庭といってもそれなりの広さがあり、周りが校舎に囲まれている広場のようなものだ。
この学園に通う生徒達は、人間以外の八つの種族と〝ベスティア〟と呼ばれる、使い魔のような契約を交わし、魔法を学んでいる。
中庭では、生徒達が自分のベスティアと交流を交わし親睦を深めたり、ベスティアとの魔法の連携を試してみたりといった生徒達が多くいた。
中庭はそういったベスティアと生徒が一緒に過ごす場所としてよく使われている。
ラリカは噴水近くのベンチに座りながら、その光景を羨ましそうな目で眺めていた。
ラリカにはベスティアがいなかった。
そもそもベスティアという関係を結ぶには、人間が召喚術を使い、契約を交わし、交わされた種族が召喚者のベスティアとなるといったのが一般的である。
召喚術も魔法の一種として扱われるが、召喚術は魔法の中でも簡単な方であり、最初に学ぶ魔法であることも多い。
そのため魔法が極端に使えない者でも魔力さえ持っていれば、発動しないということはほとんどなかった。
もちろんラリカもこの学園に入り、暫く過ぎた頃に学園で行われる召喚試験を受けたが、何故か召喚術は発動しなかった。
請け負った試験管曰く、原因は人により様々だが、稀にこういうことが起きるのだという。
ベスティアがいなくても魔法士にはなれるのだが、大抵の魔法士はベスティアと共に行動していることが多い。
それに加え、ラリカには両親が小さい頃に他界し、この学園に引き取られているため家族がいない。
ベスティアと相棒や家族の様に親しくしている生徒達を見て、羨ましい気持ちになるのも不思議ではなかった。
「あ〜あ……今日は嫌なことばっかり…。とはいっても、殆ど毎日こんな感じなんだけど…」
膝に肘を立て、頬杖を突きながら一人呟く。
ラリカがあからさまに一人落ち込んでいると、一人の女性がラリカの目の前に立ち塞がった。
「ラリカ」
そう優しい声で呼んだ女性の声に、ラリカは聞き覚えがあった。
名前を呼ばれ、頬杖を突いている手から顔を上げると、緑色の髪を後ろにお団子結びにし、眼鏡をかけている清楚な女性がラリカの目の前に立っていた。
彼女は、ラリカの唯一の育て親であり、学園長の秘書を務めているセラン・セイフィールドだ。
「セラン、どうしたの?」
突然、自分の元に訪れたセランに少し驚きながら、ラリカはセランに話しかけた。
ラリカに問いを聞いて、セランは少し微笑みながら答える。
「広場を通りがかったら、ベンチに座っているラリカを見かけたから話しかけただけよ。隣、座ってもいいかしら?」
「うん」
ラリカはそう返事をすると、ベンチの真ん中より少し横にずれて一人分の座るスペースを作り、空いたスベースにセランが座る。
セランは家族のいないラリカを引き取り、この学園へと連れて来た人物だ。
ラリカにとって血は繋がっていないが、家族と同じような感覚を感じていた。
「聞いたわよ、ラリカ。フライト先生の授業で、また魔法失敗したんだって?」
「……毎度毎度、情報が早いよ…ついさっきのことなのに」
ラリカが少し呆れながらセランに言った。
それでもセランはそうではないとでも言うように言葉を返す。
「あら、私じゃなくて噂になるのが早いのよ。それで?今回は何を失敗しちゃったの?」
半分好奇心で聞いてくるセランだが、嫌なことを掘り返されたかのような気分になったラリカは、少し不機嫌になりながら答える。
「今回はって…そんな毎回失敗してるみたいじゃん」
「あら、違ったかしら?」
「……。…違わないです」
返す言葉が無くなり、参ったと降参するかのように答えるラリカ。
そんなラリカの反応を見て、面白いとでも言うようにセランはクスッと笑った。
セランは昔から人を揶揄うことが好きな性格だ。
「それで?何をしたの?」
何度も聞いてくるセランの好奇心に負け、ラリカは先程の出来事を渋々説明する。
「……前回の授業の復習で、植木鉢の芽に花を咲かせる魔法をかけたら、口に牙の付いたすっごい笑う植物が咲いた」
「植物が笑うの?」
「うん、ギャハハって笑ってたよ」
「ふふっ、変な植物。笑う植物(ラーフプラント)って名前はどう?」
「名前、安直じゃない?…っていうか、揶揄わないでよ。これでも失敗ばかりで落ち込んでるんだから。しかも今回はちゃんと練習して、少しだけ自信があったんだよ?」
ラリカはベンチの上で体育座りをし、膝に顔を埋め、いかにも落ち込んでいるという素振りを見せた。
そんな様子を隣で見ていたセランは、ラリカを慰めるかのように頭をそっと優しく撫でながら言う。
「大丈夫よ。ラリカが諦めなければ、いつかきっとラリカにもちゃんと魔法が使えるようになるわ」
セランの言葉にラリカは顔を上げ、セランの方を見る。
微笑みながらラリカを見るセランはとても優しく、そんなセランを見てラリカも釣られるように苦笑した。
セランはこういう時、母親のような顔をする。
ラリカにとって、セランの笑みや言葉は何よりの励ましになり、それが少し嬉しく感じた。
その直後、中庭内のラリカ達とは少し離れたところで、甲高い叫び声が響く。
その声は広場中に響き渡り、広場にいた生徒達は何事だろう?と慌ただしい様子へと変わっていく。
ラリカとセランの二人は声が聞こえた方向に目を向けると、少し遠くの方で薄い水色の虎(ティグリス)が暴れているのが見えた。
セランは顔を顰めた後に、ラリカに「少し見てくるわ」と言って、すぐに走って向かって行ったが、ラリカも気になってしまい、セランの後ろを少し遅れて付いて行く。
叫び声の元に駆け寄ると、暴れている虎(ティグリス)とベスティア関係を結んでいると思われる女子生徒が必死に落ち着かせようと声を掛けていた。
しかし、虎(ティグリス)の耳には全く聞こえていないようで、虎(ティグリス)は唸り声を挙げながらひたすら暴れ回っている。
よく見ると、女子生徒は虎(ティグリス)に傷を負わされたのか、右腕を抑えているため魔法も上手く使えない様子だ。
セランは女子生徒に「下がって」と言い、盾になるように前に立つと、ゆっくりと少しずつ虎(ティグリス)に近づいていく。
虎(ティグリス)に悟られないよう、近づきながら冷静に動きを止める魔法を唱え始める。
セランの魔法により、虎(ティグリス)の身体は淡く光り始めるが、虎(ティグリス)がそれに抗うように更に暴れてしまうため、光はすぐに弾けて消えてしまう。
虎(ティグリス)の動きを完全に止めることが出来ず、何度も魔法を試すが、セランも精一杯のようだった。
ラリカはその光景を見ながら、何も出来ずただ茫然と眺め、見守ることしか出来ずにいた。
ふと、ラリカの耳に複数の誰かの声が聞こえてくる。
『痛い!痛い!!』
『後ろの足に小さな矢が刺さってる!』
『早く誰か抜いてあげてよ!』
ラリカは突然耳に響いた複数の声の主を見つけようと、辺りを見渡すが、騒ぎのせいで人が集まっており、誰の声なのか、何処から来ている声なのか分からなかった。
声は絶えずラリカの耳にはっきりと入って来るが、辺りをどれだけ見渡しても、ラリカに話しかけている人物は一人も見当たらない。
仕方なく声の主を探すのは諦め、聞こえた声の通りに虎(ティグリス)の後ろ足をよく見ると、暴れているためすぐには分からなかったが、かなりの血が流れ出ているのが見えた。
ラリカはすぐさま人混みを掻き分け、セランに近づくと、虎(ティグリス)に魔法をかけているセランに声を掛ける。
「セラン!あの虎(ティグリス)、後ろ足から血が流れてる!」
騒ぎに埋もれないように大声で話しかけるラリカに気付き、セランはラリカの言うように虎(ティグリス)の後ろ足に目をやり、漸く怪我の存在に気付く。
「!あれは…。ラリカ、ありがとう!」
ラリカにお礼を言うとセランは、何度も虎(ティグリス)にかけていた魔法を解いた後に、再び虎(ティグリス)に向かって右手の掌を向ける。
「我の望みに答えよ。ペインリリーブ」
セランが先程とは違う呪文を唱えると、虎(ティグリス)がいる地面に紫色の魔法陣が浮かび上がる。
虎(ティグリス)の体がほんのり紫色に光ると、魔法陣はスッと消えていった。
すると虎(ティグリス)は次第に大人しくなり、その場に寝るようにドスンと小さく音を立てて蹲る。
蹲った虎(ティグリス)の表情は酷く疲れ切っている様子で、横たわりながらも息を少しずつ整えるかのように深い呼吸を繰り返していた。
先程セランがかけた魔法は痛みを和らげる魔法だが、あくまで和らげるのであって、痛みが完全に引くわけではない。
多少の痛みは残るが、それでも一度落ち着かせるには効果があるだろう。
また、この魔法は体がほんのりと光っている間しか効果がなく、魔法がかかっている時間も短い魔法だ。
セランは急いで虎(ティグリス)の元へと駆け寄っていく。
ベスティアである生徒も同じように傍に駆け寄っていき、再び暴れ出さないよう、安心させるかのように撫でながら傍で小さく「大丈夫」と静かに何度も声を掛けた。
セランが虎(ティグリス)の後ろ足に刺さっていた黒い矢をそっと引き抜き、怪我の様子を見る。
虎(ティグリス)は少し唸り声をあげたが、魔法によって痛みが和らいでいるのか、再び暴れ出すことはなかった。
思ったより深く矢が刺さっていたようで、足からは赤い血が止まることなく流れ出ている。
「黒い矢……。とりあえず、早急に手当てしないと。ラリカ」
セランは、虎(ティグリス)の様子が気になって近くまで寄って来ていたラリカに声をかける。
その表情はさっきまでの優しい笑顔ではなく、真剣な目つきで、少し厳しそうな表情を浮かべていた。
「な、何?」
「獣医室からベイリーを呼んできて。なるべく急ぎで」
「わ、わかった」
セランにそう頼まれたラリカは、セラン達に背を向け、そのまま獣医室がある職員棟へと急いで走って行った。
職員棟一階の端にある獣医室では、暗めの黄髪で女獣医師のベイリー・ネルチスが部屋の隅にある机の上でペンを持ち、何やら紙に文字を書き写していた。
机のすぐ横にある引き違い窓には、カーテンレールから鳥の止まり木がぶら下がっている。
その止まり木には、インコに似たベイリーのベスティアが毛繕いをしながら止まっていた。
突然、獣医室のドアがガラガラと騒がしい音を立てながら勢いよく開き、それに驚くかのように止まり木にいた鳥(アウィス)がバタバタとその場で羽をばたつかせる。
五月蝿くドアを開けた犯人は、少し息を切らしながらやって来たラリカだ。
「はぁ…はぁ…。っ…、先生!広場でちょっと騒ぎがあって、えっと…と、とりあえず来てくれませんか!」
少し急いているせいか、ラリカは上手く頭が回らず、事細かに内容を話すことが出来なかった。
ベイリーはラリカの様子に対して特に大きな反応を返したりせず、大人しい様子で何かを書きながら振り向かずにラリカに話しかける。
「…ラリカ、うるさい」
「ウルサイ、ウルサイ」
ベイリーが言った言葉を、鳥(アウィス)が繰り返す。
「お前もな」
ベスティアには反応するようで、ようやく机から目を背け、座っている回転チェアを鳥(アウィス)の方に向けながら、ベイリーが鳥(アウィス)にペンを向けて、声をかける。
「オマエモ、オマエモ」
そう言葉を繰り返す鳥(アウィス)をベイリーは無視し、持っていたペンを机に置くと椅子から立ち上がり、白衣のポケットに両手を入れる。
そのままラリカの元へと近寄り、人差し指でラリカの開けたドアを指す。
「それから、ノックしてから入れ。それで、何があった?」
一人と一羽のやり取りを見ている間に、少し落ち着いたラリカは先程広場で起こったことを一から丁寧に説明する。
「広場で虎(ティグリス)が突然暴れ出して…セランが止めてくれたんですけど、原因は後ろ足に刺さっていた矢だったらしくて。その傷が思ったよりも深かったので、セランに先生を呼んで来てと言われて来ました」
ベイリーはラリカの話を真剣に聞き、更に詳しい状況を知るためにラリカに質問を返す。
「矢は?」
「セランが抜いて、今は軽い治療をしているとこだと思います」
「傷が深いってことは、セランの魔法じゃ治らないか…。わかった。早く連れていけ」
「あ、はい」
ラリカは言われた通りにベイリーを連れて、広場へと急ぎ足で戻っていく。
再び広場へ戻ると、広場にいた生徒達が少なくなった他には特に変わった様子はなく、先程と同じ場所でセランがずっと虎(ティグリス)の手当てをしていた。
「セラン、呼んできたよ」
ラリカがそう声を掛けると、セランがラリカの方に振り返る。
ベイリーはラリカの横を通り過ぎ、足早に蹲っている虎(ティグリス)の怪我の具合を見に、傍へと近寄る。
「ありがとね、ラリカ。……怪我はどんな感じ?ベイリー。一応矢は抜いて、軽く止血もして、今は魔法で痛みを和らげてるけど……」
「これは思ったより深くやられてるな……。虎(ティグリス)だったから良かったものの、他のやつだったら足一本無くしてるぞ」
傍にあった黒い矢を見ながら、二人は少し小声でぶつぶつと話し出す。
ラリカはそんな二人の様子を一歩離れたところから見守っていた。
ふと、広場にある時計塔を見ると、既に時刻は十時を回っており、二つ目の授業が終わる頃だった。
ラリカは植物学の授業でフライト教授に呼び出されていたことを思い出す。
「あ、フライト先生に呼ばれてたんだった。セランもベイリー先生も大変そうだし……。いいや、きっと大丈夫だよね。声掛けないでこのまま行っちゃおう」
ラリカはそう独り言を呟くと、少し心配する気持ちを残しながら、二人の邪魔をしないように広場から静かに離れ、再び職員棟へと戻っていった。
──────植物学専門研究室前。
職員棟の三階にある植物学専門研究室と書かれたドアを、三回ノックする。
すると、中から「入っていいぞ」というフライト教授の声が返ってくる。
その声を聞き、ドアを開けると研究室の中でフライト教授が窓際に立ち、黄昏てるかのように外を眺めていた。
研究室の中は、様々な観葉植物の生えた植木鉢が複数あり、段ボールの箱や、資料が纏まっているのであろうファイルなどで溢れ返っている。
誰がいつどう見ても綺麗とは言えない部屋だ。
「やっと来たか。まぁ、適当にそこにでも座れ」
フライト教授が〝そこ〟と言いながら、部屋の中心に机を挟んで向き合っているローソファを指で刺したので、言われた通りにあまりフカフカとは言えないソファに座る。
ラリカが座ったのを確認すると、フライト教授は実験で使う火のランプを取り出した。
そのランプにフライト教授の傍にいた犬(カニス)が尻尾から小さく火を出し、その火でランプを灯す。
火の点いたランプの上に金網の三脚台を置き、その上に水の入った小さめのやかんを置いた。
どうやらフライト教授は、実験用のランプでやかんに入っているお湯を沸かしているようだ。
「…あの…先生。いつも思うんですけど、何も実験で使うランプでお湯を沸かさなくてもいいと思うんですが…」
ラリカが少し呆れたように言うが、フライト教授は何も気にしない様子で言い返す。
「いいんだよ、沸けば何だって。ここから調理室まで遠いし、こうすりゃそこまで行かなくて済むだろ?それに植物学で実験することなんてそうそう無いしな。ましてや火なんて植物の天敵だ。使うことはない」
「まぁ…そうですけど…」
フライト教授はそう言って、引き続きお湯を沸かした。
相変わらずの適当な性格だなと思いながら、説得するのを諦めたかのようにラリカは教授に話すのをやめた。
やがてお湯が沸き、フライト教授は資料の並んでいる棚から数少ないマグカップを二つ取り出すと、ラリカに両手に持ったマグカップを見せながら問いかける。
「コーヒーでいいか?」
「甘めにしてくれるならお願いします」
ラリカがそういうと、フライト教授は「子供だな」と呟きながら、マグカップに机に置いてあった粉末状のコーヒーを入れ、火を止め、沸かし終えたお湯を注ぐ。
片方のマグカップに砂糖とミルクを入れ、小さいスプーンでグルグルと混ぜると、マグカップの中のコーヒーは次第に色が薄く変化していった。
コーヒーの入ったマグカップを二つともテーブルまで持っていき、ラリカの前に追加の砂糖とミルクと一緒に、色の薄くなった方のマグカップを置く。
「ん。コーヒー」
「ありがとうございます」
コーヒーの入ったマグカップを両手でテーブルから持ち上げると、用意された砂糖とミルクを入れず、ズズッと音を立てながら一口飲む。
ラリカが言った通り、コーヒーは追加する必要のないくらい甘めで出来ていた。
教授は、ラリカと対面するかのように反対側のソファに座り、同じようにコーヒーを一口飲む。
そのままマグカップを手から離さずに、話を始めた。
「まぁ、今日は別に説教しに呼んだわけじゃねぇから、それ飲み終わったら帰っていいぞー。説教しても、魔法が上達するわけでもないし、俺に得なんか無いからな」
「毎度呼ばれては話して終わるだけなんですけど、私いつも何の為に呼ばれてるんですか…」
「んー、俺の話し相手の為だな。いつもやる事なくて暇なんだよな」
本当に適当な先生だ……。
ラリカは内心改めてこの先生に酷く呆れた。
ラリカのそんな心情が自然と顔に出ていたのか、フライト教授はラリカの表情を見て、言葉で返す。
「その顔は呆れてる顔だな?俺だって忙しいからこんな時しかゆっくり出来ないんだよ」
「今さっき暇って言ってましたけど」
フライト教授は、「そうだったか?」と恍けながら、また一口コーヒーを啜る。
この先生の適当さには、いつも呆気にとられてしまう。
「…それに、毎回私じゃなくても他の先生とかもいるじゃないですか。先生…もしかして少女が好k」
「違うからな。そういう意味は無いからな。その引くような目をやめろ。心が痛い」
言葉を遮られ、再び呆れながら溜め息を吐いた後にラリカもまたコーヒーを一口飲んだ。
フライト教授はコホンと一回咳き込むと話を続ける。
「単に毎回呼ぶのは、お前が一番呼びやすいだけだ」
「呼びやすい?」
「授業で指名する。そんでお前は魔法を失敗する。それで呼び出せる。これの繰り返しだ。な?呼びやすいだろ?」
「それ私が魔法を失敗する前提じゃないですか!」
「だってお前、魔法成功したことねーだろ?何回ここで俺の作ったコーヒー飲んでんだか」
「それはそーですけど…少しは生徒を信じるってことはないんですか」
「一日やそこらで出来るようになってたら、とっくに出来てるだろ」
教授の言葉に返す言葉もなく、ラリカは不機嫌そうに頬を膨らましながら、少しの怒りを表すことしか出来なかった。
怒りを少し収めるようにもう一度コーヒーを飲むが、油断して勢いよく飲んだコーヒーはまだ冷め切っておらず、すぐにマグカップから口を離す。
フライト教授は、そんなラリカの様子に気にも止めず、再び話を続けた。
「まぁ…努力は認めるがなぁ…。どの魔法も進歩しない上に、教えられてる魔法がどれも出来ないとなると、お前の中にある魔力の大きさの問題だな」
フライト教授はそう言いながら、ラリカの胸元あたりに指を刺した。
ラリカはその言葉を聴くと、考えるように顎に手を当てる。
「魔力の大きさ…」
「そう。人は誰しも、騎士だろうと傭兵だろうと、一般人でも多少なりとも魔力を持っている。今まではその魔力を騎士なら剣に、傭兵なら自分の武器にといった感じで物に魔力を与え、使用していた。魔法士っつー役職はそんな奴らよりも最近生まれたもので、何も無いところから魔力で何かを生み出すなんて昔は難しいものだって考えられてたらしい。道具の使わない魔法なんてもんは、人間技じゃないってな」
フライト教授の言葉を、授業を受けるかのように頷きながらラリカはじっと聞いていた。
フライト教授はマグカップの中身が残り少なくなったため、中身を一気に飲み干し、一息つく。
その後、その場から立ち上がり窓際の机に向かうと、先程と同じように、マグカップに二杯目のコーヒーを注ぎながら、また話し出す。
「魔法っていうのは、自分の持つ魔力を発動時に、身体のとある一点に集中させてることによって魔力が具現化して扱うという仕組みになっている」
「うーん…。要するに魔法は自分の持ってる魔力を一つの場所に集めて、密度を上げないと扱えないってことですか?」
「ま、そういうこったな。手から出すなら手に。足から出すなら足に。その魔法に必要な魔力を、必要な一ヶ所に上手い具合に集めないと魔法は使えない。お前が魔法を使えないのは、根本的に使う魔法に対する魔力が足りないか、魔力を集中させる…要するに使い方とかコントロールとかが下手かのどっちかかもな。中途半端に魔力を扱っても、今日みたいな変なものしか出来ん」
「なるほど……」
フライト教授はそう説明しながら、やかんの中のお湯が無くなるくらいまでマグカップにお湯を注ぎ込むと、元の金網の三脚台に置く。
マグカップの中をスプーンでグルグルと回し、その場に立ったまま、またコーヒーを飲み始めた。
「あとは、火の魔法やら水の魔法やら魔法の属性によって魔力の扱い方も変わってくる。もちろん、どの属性が自分の魔力に合ってるのか、扱いやすいのかっていうのも相性がある。まぁ、色々試してみて得意不得意あるだろうから、出来ることからやってみることだな」
「…そうしてみます」
ラリカはフライト教授にそう言いながら、不安そうに苦笑いをした。
マグカップの中の少し冷めた甘いコーヒーを一気に飲み干し、空になったマグカップをテーブルに置いてから一息つく。
しばらくして、その場に立ち上がりこの部屋から立ち去ろうとフライト教授に声をかけた。
「それじゃあ、今日は失礼します」
「おー、頑張れよ」
「はい」
フライト教授の応援の言葉に、一言返事を返し、入ってきたドアの方へと向かい、ドアノブを握る。
ふと思い立ったかのように、その場に立ち止まりドアノブを握ったまま、背後にいるフライト教授に振り返ると、ラリカは最後にこう言った。
「…そういえば話し相手が欲しいなら、ベイリー先生と喧嘩ばっかりしてないで、ちゃんと話したらいいと思いますよ」
少しいたずらな笑みを浮かべながら言い、フライト教授の返事を聞かずにドアノブを回して部屋から出て行った。
フライト教授は、もう部屋にいないラリカに対して、気のない返事で「おー…」と言いながらコーヒーをズズっと音を鳴らしながら啜り飲む。
「……はぁ…ラリカのやつ最後に余計なこと言い残しやがって…」
そう言って気が重そうに、また一口コーヒーを飲む。
獣医師のベイリーとフライト教授は、学園の生徒なら誰でも知っている夫婦関係だ。
しかし仲が良いわけでは決してなく、寧ろ仲が悪いことで有名だった。
顔を合わせればすぐに何か言い合いをしている二人なんて光景は、この学園において珍しい事ではない。
そんな二人が夫婦であることに、不思議に思う生徒も少なくはなかった。
今のフライト教授が、一番悩ませている存在と言ったら、間違いなくベイリーだろう。
研究室で一人フライト教授は、少しの間ベイリーのことで思考を巡らせると、もう一度大きく溜め息を吐くのだった。
ラリカが研究室から出ると、まだ昼までほんの少し時間ある事を確認し、そのまま正面棟へと足を向けた。
正面棟には学園の図書館がある。
ラリカがいつも暇な時に訪れる場所だ。
いつもここで様々な魔法を調べ、実践してみたり、独学で学んだりしていた。
まぁ、今のところラリカに扱えそうな魔法は何一つ見つかっていないのだが。
正面棟の東にある図書館の少し重く、大きい茶色の扉を押しながら開ける。
三階まである広い館内はとても静かで、生徒は数えられる程度しかいなかった。
ラリカは館内の中央にある螺旋階段を上がると、二階にある魔法の呪文や術式の本が多くある棚を見渡す。
天井まで高く聳え立っている棚は、一つだけで一万は余裕で超えるほどの本がひたすらに並んでいる。
上の棚の方をよく見るため、本棚に寄りかかるかの様に立てかけられている梯子を、横にスライドさせて、固定した後にゆっくりと登っていく。
複数ある多くの本の中から、ラリカの目に留まったのは、『古代魔法と現代魔法の呪文集』と背表紙に書かれた古びた本だった。
本を手に取り、パラパラと適当にページを捲っていくが、目に入るのはどれも使いこなすことの出来なさそうな難しい魔法ばかりである。
少し溜め息を吐き、本を閉じようとすると不意に『光魔法』と見出しに書かれたページが目に留まる。
軽く文章を読んでみると、見出しに書いてある通り、そのページには光属性の魔法に関することが書かれているようだ。
「光魔法…。あるのは知ってるけど、授業では習わない魔法だな…。……まぁ、出来ると思わないけど、読むだけなら…。…えっと…『光魔法。基本的な属性魔法である火・水・風・土・植物以外の高度な魔法。光魔法を使える魔法士は未だ存在しない。しかし今から数百年ほど前に、とある種族がこの属性魔法を使用していたことから、今でも研究が続けられている』……そんな種族いたっけ?」
長々と続く文章を読んでみたが、ラリカにはあまり馴染みのない話が多く書かれていた。
光魔法そのものついてはあまり詳しく書かれてはいなく、次のページからは光魔法の呪文だけが一覧として
書かれていたが、それも数少ないものだった。
少しだけ興味を持ったのか、ラリカはその本を図書館にある読書スペース用の机まで持っていき、少ない呪文が書かれたページを静かに読み進める。
暫く読んでいると、正面棟の最上階にある鐘が動き出し、大きな音を立てて鳴り響く。
その鐘の音は学園中に響き渡り、図書館にいたラリカにもはっきりと聞こえてきた。
丁度、昼の合図の音だ。
鐘の音で集中が途切れたラリカは、自分がお腹を空かせていたことに気付き、本を元の棚に戻すと図書館を後にした。
一方その頃、リュウシンの町を囲んでいる森の中で、二人の黒いマントを羽織った男達が周囲を見渡しながら怪しげに動き回っていた。
「おい、見つけたか?」
「いいや…。そもそも、こんな深い森の中で見つける方が難しくないか?」
「何言ってんだ。まだ子供とはいえ、竜(ドラコ)の種族だぞ?滅多に見られないもん、捕まえなきゃ損だろ」
「確かに珍しい種族だけどさ。捕まえてどうすんの?売るの?」
「そんなもん、ボスに献上するに決まってるだろ。そうすりゃあ、俺たちは昇格間違いなしだ」
「…まぁそう言われれば、そうだけど…。一応逃げ出すときに重傷負わせたし、そんなに遠くまで行けないとは思うけど。こんな森の中じゃ流石に見つかんないよ」
「………とりあえず!つべこべ言ってねーで探せ!」
「はぁ…はいはい」
二人の男はそう話しながら、さらに森の奥へと進んで行った。
─────食堂。
マーシック学園の食堂は、寮に併設されている施設だが、もちろん寮に住んでいない学園の生徒も利用可能である。
ラリカが朝食を食べるのに利用していた食堂は、生徒達とそのベスティア達が、昼食を食べるために集まっていた。
ラリカもまた同じように空かせたお腹を満たすために、食堂へとやって来ている。
作られたばかりの昼食をお盆に乗せ、朝と同じように食堂内の空いている席に座る。
今日の昼食のメニューは、オムリーゼ──オムライスのようなもの──だった。
卵料理はラリカの好物だ。
いつもはこの料理を心待ちにしていたかのように嬉しそうに食べるラリカだったが、この日は違い、何やら考え込みながら食べている。
その理由は、広場での騒ぎの時に聞こえてきた声のことだ。
ラリカはそのことを考え、オムリーゼを食べながら独り言を呟き始める。
「今日広場で聞こえた声…たまに聞こえるんだよね。誰の声だったんだろう……。いつも違う声みたいだし。前にセランに話してみても気のせいとか言われて終わったし…。幻聴、かな? …にしてもはっきり聞こえすぎる気もするんだけど…」
うーん…と唸りながら一人悩むラリカ。
色々と考えてみたが、いくら考えてみても結局答えは見つからないままだった。
考えても仕方ないと諦め、思考をやめ、食事に集中する。
暫く食堂でゆっくりお腹を満たした後に、食べ終わった食器を返却口へと戻す。
この後は特に何も予定はないので、部屋へと戻り、自習でもしようと寮の方へと向かい食堂を出た。
四階の自分の部屋の前に来たところで、突如としてラリカの耳に広場で聞こえたような声が再び響く。
今度は子供の男の子のような声だ。
『──助けて!』
その声は力強く、必死に助けを求めている声だった。
部屋の前の廊下で、ラリカは聞こえてきた声に反応し、その場に立ち止まる。
広場にいたとき同様に辺りを見渡したが、寮の廊下には人は居らず、どこにも助けを求めるような人はいなかった。
「…気のせい…?でも、確かに聞こえたはずなんだけどな…」
『──誰か、助けて!』
気のせいだと思い始めるラリカに、同じ声がもう一度頭に響いた。
今度こそ疑う余地もなく、はっきりと聞こえ、ラリカは部屋には入らず、寮の屋上へと走って行く。
寮の屋上には誰もいなく、ラリカはすぐに屋上の手すりに捕まり辺りを見渡した。
辺りは特に変わった様子はなく、いつも通りの学園の校舎と、その先には町の光景が広がっている。
それでもラリカは、助けを呼ぶ声を信じ、じっくりと全体を見渡した。
すると、町の外れの森から微かに煙が上がっているのが見えた。
何かが燃えているような煙ではないようで、煙は風に吹かれながら次第に消えていく。
「……もしかして、あそこから?」
ラリカはそう考えると、その場からすぐさま走り出す。
寮を飛び出し、広場を走り抜け、学園の外へと出ていく。
人が行き交う町を通り抜け、頭の中で響いている声が段々とかすれ小さく弱っていくのに焦りを感じながら、その声を頼りにひたすらに走って行った。
ようやく辿り着いた場所は、先程学園から見えた町を囲んでいる森の入り口だった。
本来学園の一部の生徒は、許可なく町の外に出る事は許されていない。
一部の生徒というのは、見習い魔法士でもない生徒、要するに見習い魔法士になるほどの実力がまだ身についていない生徒のことだ。
魔法の使えないラリカも当然、その一部の生徒の中に入っている。
そして町の外というのはこの森の中も対象だった。
しかし、ここまで来てしまった以上学園に戻っても仕方なく、戻って事情を説明したところで、どこからか声が聞こえたと言って、誰かがそのことを信じてくれるとも思わなかった。
何よりもラリカの頭には今、そんな事を考えている余裕もない。
誰かが助けを呼んでいるのに、それを無視して学園に戻るなんて事はラリカの頭には無かった。
入り口で少しだけ息を整え、森の中へと歩いて入っていく。
森の中は木々で覆われ、木陰の隙間から日の光が僅かに入ってくる程度で少し薄暗かった。
普段なら森の景色が少し幻想的に見えるはずなのだが、不安な気持ちもあってか、不思議と今はこの薄暗さが不気味に感じてしまう。
森に辿り着く前まで聞こえていた声は、今はもう途絶えてしまっていた。
声が消えてしまっては、声の主が無事なのかさえ分からず、ラリカはより一層、不安感を抱く。
とりあえず、行先も分からないまま森の中をひたすらに歩き続けていると、高い崖がそびえ立っている開けた場所まで来てしまった。
目の前には崖しかなく、崖の周りの開けた空間には木々も生えていない。
どうやら道はここで行き止まりのようだ。
「おっかしいなぁ〜…ここから聞こえたと思ったんだけど…。上には流石に登れないし…。まぁ、そもそも町外れの森から学園まで声が届くはずもないよね…。やっぱり幻聴だったのかな?」
ラリカがキョロキョロと辺りを見渡していると、崖の上からガサガサと音がした後に何かが飛び出してくる。
「ん?……え。うわぁ!」
ラリカは茂みが擦れる音に気付き、咄嗟に上を向いたが既に遅く、却って上を向いた為に落ちて来た何かを顔面で受け止めることとなった。
そのまま衝撃に任せて地面へ仰向けに倒れ、ドスンという音が小さく森の中に鳴り響く。
「いったー!…もう、何?」
身体を起こしながら痛みに耐えるかのようにその場で蹲り、ラリカの上に乗っている、落ちてきた何かを両手で抱き抱えた。
パラパラと舞ってきた木の葉を頭に乗せながら抱き抱えているものをよく見ると、落ちてきたそれは全身が青く、小さな角と翼が生えている子供の竜(ドラコ)のようだ。
「これって……もしかして、子供の…竜(ドラコ)?なんでこんなところに…」
落ちてきたものが竜(ドラコ)だとわかると、ラリカは竜(ドラコ)を腕で優しく包み、抱き直す。
竜(ドラコ)とぶつかった顔の痛みも多少引き、その場に立ち上がって竜(ドラコ)の様子をよく見ると、息が荒く、苦しそうにしていた。
他にも、身体全体が酷く傷ついておりボロボロの状態のようだ。
「可哀想に…一体、何があったんだろう?」
ラリカがボロボロの竜(ドラコ)を心配そうに眺めていると、また別の声が、竜(ドラコ)が降ってきた崖の上から聞こえてくる。
「おい、いたぞ!竜(ドラコ)の子供だ!」
「本当か!」
ラリカは声に反応し、咄嗟に崖の上を見上げる。
崖の上には黒いマントを羽織った男が二人、ラリカと竜(ドラコ)を見下ろしていた。
二人の男は滑り落ちるかのように崖の壁を伝って降りてくる。
マントのフードを顔が見えないくらいに深くかぶり、いかにも怪しげな雰囲気の二人を見て、ラリカはほんの少し竜(ドラコ)を抱く力を強め、警戒した。
「ん?この子は?」
「さぁ?俺は知らねーぜ。竜(ドラコ)を抱いているあたり、見つけてくれたんじゃないか?」
「ふ〜ん…そう」
少し華奢な男が適当に返事をすると、その隣にいたガタイの良い男がラリカの方に一歩近づいてきたので、警戒していたラリカは釣られて一歩後退りをする。
その反応に気付いた男性が、ラリカが警戒していることに気づき、なるべく優しく声をかけた。
「あぁ、ごめん。怖がらせたか?それ、俺のベスティアなんだ。渡してくれるか?」
ラリカはそう優しめな口調で話す男性に、どこか不信感を抱かずにはいられなかった。
魔法を使うことが出来ないラリカでも、授業は真面目に受けている。
基本的に必要な知識くらいは持っているのだ。
竜(ドラコ)を抱く力を緩めずに、少し睨みつけながら、慎重に言葉を返す。
「……お兄さん、本当にこの子のベスティアなの?」
「あぁ、もちろん。それがどうかしたか?」
「…知らないの?ベスティアを召喚するとき、各種族の子供は成熟するまで、召喚されることはないんだよ」
「…確かにね。でも召喚しなくても、たまたま出会ったやつとベスティアになるってこともあるだろ?子供でも契約そのものを交わすことは出来るからな」
ラリカの言葉に今度は華奢な男性が言葉を返した。
確かに召喚をしないで出会った種族と契約を交わす事もある。
学園にいる生徒も何人かは、召喚せずに幼くしてベスティアと出会った人もいた。
召喚術というのは、あくまでも自分と相性の合うベスティアを呼び出すための手段の一つであり、ベスティアになるための必須のものではない。
しかし、ラリカは怯まずに言葉を続ける。
「…確かにそうだけど、竜(ドラコ)は一生で一度見かけるどうかってくらい珍しい種族だよ。竜(ドラコ)の住む場所だって知られてないのに、お兄さんたちはどうやってこの子と出会ったの?」
ラリカがそういうと二人は黙る。
ラリカ自身、強気で言っているように見えるが本心は怪しさ満点の二人に怯えていた。
ラリカの言ったように、竜(ドラコ)はこの世界では珍しい種族。
普通に暮らしていたら出会うことなどないような種族だ。
この二人のどちらともベスティアではないとしたら、竜(ドラコ)を欲しがるのは良からぬ理由であることは間違いない。
そうだとすると、ラリカの抱えているこの竜(ドラコ)
がこんなに傷ついているのは、もしかしたらこの二人のせいなのかもしれない。
そう考えたら、この竜(ドラコ)を守ってあげなければという気持ちの他に、相手を傷つけることが出来る二人に対して内心は怯えることしか出来なかった。
緊張を解かずにしばらくの沈黙が続くと、再び華奢な男が言葉を発する。
「君、やけにベスティアや召喚術について詳しいと思ったら、その制服……なるほど。あの町の学園の生徒か」
そう言いながら、華奢な男はガタイの良い男と並ぶようにして歩いてくる。
ガタイの良い男は、何のことだ?とでも考えているかのように、頭にハテナを浮かべている様子だった。
「町ってこの近くのリュウシンの町か?あそこに学校なんかあったのか?」
「魔法士専用の育成学校があるんだよ。アキリアで唯一のね。そこの生徒にベスティアなんて嘘ついてもそりゃ、信じてもらえないか」
「…やっぱり、嘘だったんだ…」
ラリカが二人の会話を、遮るように小さく言った。
若い男性は、ラリカのその睨みながらも怯えるような表情を見て、得意げに言い返す。
「そうだよ。君もご存知の通り、竜(ドラコ)は珍しい種族だ。捕らえてボスに献上しようってこいつが言い出してさ。それでここまで連れてきたんだが、途中で逃げ出すもんだから参ったよ。大事な献上品を傷つけたくはなかったけど、この際仕方がないよね」
そう残念そうに言う男性に、ラリカは酷く怒りを感じる。
いくら珍しいからって小さな子供の竜(ドラコ)を物みたいに扱うなんて…!
そんな風に心の内で叫んでも、魔法の使えないラリカにはこの二人をどうにかするなんてことは出来ず、ここは逃げるしか道がなかった。
竜(ドラコ)をしっかりと抱き抱え、少しずつゆっくりと後退する。
正面は男が二人に、その奥は崖。
逃げ道は背後の道しかない。
けれど、このまま背を向ければ、すぐに捕まってしまうかもしれない。
仕方なくラリカはすぐさまその場にしゃがみ、地面に落ちていた木の葉と一緒に土を二人に投げつける。
二人が顔を覆った瞬間にラリカは男たちに背を向け、その場から走り出す。
しかし、そう上手くは行くはずもなかった。
「チッ…逃げていくならその竜(ドラコ)は置いてってくれよな!」
男がそういうと同時に、背後からカシュッという軽い音が鳴る。
ラリカは振り向く暇もなく、音の正体を確認することが出来ず、突如として右足に痛みが走り、竜(ドラコ)を抱えたままその場に滑るように倒れ込む。
ゆっくりとその場で起き上がり、地面に座ったまま痛みのある右足を見ると、外側の足首に深く切り傷が出来ており、白い靴下にゆっくりと血の染みが広がっている。
また、ラリカのすぐ傍を見ると、地面には黒い矢が突き刺さっていた。
その矢には見覚えがあった。
昼間、学園の広場で暴れていた虎(ティグリス)の足に刺さっていたものと全く同じものだ。
それを見て咄嗟に男達の方を見る。
ガタイの良い男は、ラリカの投げた土が目に入っているのか、左手で片目を擦りながら右手で黒いボーガンを持ち、標準をこちらに向けていた。
華奢な男の方は、マントの布で土を防いだようだ。
「お前、当てるならちゃんと当てろよな」
「片目塞がってる上に、片手で操作して掠ってんなら上等だろ?」
「そんなこと言って、さっきも変な方向に飛んで行って、竜(ドラコ)を仕留め損ねてただろ」
「あれは威力を試したんだよ!結構遠くの方まで飛んでったしな」
やっぱり広場で見たあの矢は、この人が打ったものだったんだ。
この森は学園を含めたリュウシンの町を囲んでいる大きな森。
二人は広場の騒ぎがあった時から、ずっとこの森の中でこの竜(ドラコ)を探していたのだろう。
恐らく会話の内容から、学園近くの森から竜(ドラコ)に向けて矢を打った時に外し、その矢がたまたま学園の広場までやってきて、昼間の騒動を引き起こしたようだ。
普通のボーガンでは森から学園の広場まで矢は届くことはないが、もし男の持つボーガンが発射力が強く、遠くまで矢が飛ぶものだとしたら、それはかなりの威力があることが分かる。
まともに攻撃を受ければ、体を貫通するのは難しくなさそうだ。
ラリカはそう思いながらも、それでもここでじっとしているわけにはいかないと意気込み、恐怖と怪我を無視して、ゆっくりとその場から立ち上がろうとする。
しかし、今度はラリカのいる地面に突如としてガコンと亀裂が入る。
そのためラリカはバランスを崩してしまい、立ち上がることなく、再び地面へと転び、座り込んでしまう。
「逃げるのはやめておいたほうがいいよ。こいつはボーガンが武器だけど、俺は魔法士。魔法が武器だ。まだ子供で学生の君に負けるほど劣ってはないと思うんだよね。その竜(ドラコ)を置いてってくれるなら、見逃しても構わないけど」
華奢な男はそう言うが、今ここで竜(ドラコ)を置いていけば、この子はまた酷い目に合わされてしまうのだろう。
そんなことが分かっていて逃げるという選択肢は、ラリカの中には無かった。
ラリカは男二人と話す気はないと目で訴えるように、相手を睨みつける。
「…離してはくれなさそうだね。じゃあ、死んでも後悔はしないでよね」
男はそういうと、右手の掌を地面に向け、呪文を唱える。
「我の望みを叶えよ。アースクラッシュ!」
男が呪文を唱えると、ラリカの座っている地面に黄土色の魔法陣が浮かび上がる。
すると、魔法陣を中心に左右の地面が次第に大きく長方形に盛り上がっていく。
ラリカは危険を察知し、直様その場に立ち上がると、魔法陣の外へ滑るように飛び出した。
それと同時にバタン!と大きな音を立てて、さっきまでラリカがいた地面が、魔法陣の上で垂直に大きく閉じる。
そのまま魔法陣の中にいたら、ラリカの身体は硬い土に挟まれ、潰されてしまっていただろう。
ラリカはそんなことを考えながら、ゴクリと荒げている息を呑み、精一杯、心を落ち着かせた。
「へぇ〜…避けられたんだ。結構勘がいいんだね」
「おいおいおい、あれじゃあ竜(ドラコ)も一緒に潰れちまうじゃねーか」
「…じゃあ、お前の下手くそなボーガンであの女の子だけ打てるの?生憎、僕は手加減出来る魔法なんて知らないんだよね」
華奢な男はそういうと、一歩ずつゆっくりとラリカの方へと近づいていく。
…どうしよう。
このまま逃げようとしても、ボーガンで今度こそ打たれるか、魔法でまた足場を崩されて転ばされるかのどちらかだ。
隙を見るにしても隙なんて作らせてくれるはずもなく、怪我を負った足じゃ無理に歩くことは出来ても遠くまで走ることは出来ない。
だからと言って、魔法がまともに使えなければ戦う手段もない。
一人で、精一杯何か打開策はないかと悩んでいると、こちらに向かって来ている男がラリカを不思議そうに見ながら、言葉を投げかけてくる。
「……君さ、魔法学園の生徒なのに魔法は使わないんだね。……もしかして、使えないとか…?」
男の言葉にラリカは少しだけギクリとし、身体を一瞬ピクッと震わせる。
男はラリカのその反応を見逃さなかった。
自分の考えに確信を持つと、男は少しずつ笑みを浮かべ、笑い声を上げる。
「はは、あはは、そうなんだ。君、魔法使えないんだ。なんだ。じゃあ、何も出来ないんだね」
ラリカは余裕そうに笑い声を混じりながら話す男の言葉に酷く悔しい思いを抱き、俯きながら下唇を強く噛む。
逃げることも守ることも出来ない。
今ここで魔法が使えないことが、今まで以上に自分の無力さを実感させる。
それでも、せめてこの竜(ドラコ)だけは守り通したい。
その為には、頭を過ぎる後悔や諦めを振り払い、落ちこぼれの自分でも何か出来る事はないかと思考を巡らすしかなかった。
不意に、今日、図書館で読んでいた本を思い出す。
光魔法。
自然属性魔法以外の高度な魔法。
今まで植物や火、風といった魔法は全て試し、その全てが上手く使えなかった。
光魔法は今まで試したこともない。
けれどそんな魔法、ラリカが使えるはずがない。
ラリカがそんな風に考える暇も与えないかのように、男は止めを刺そうとラリカの方へと走って向かってくる。
それに気づき、ラリカは咄嗟に覚悟を決める。
「あぁ、もう!考えてる暇なんてない!失敗なら失敗で爆発くらい起きてよね!」
ラリカはヤケクソになりながら叫ぶと、右腕で竜(ドラコ)を抱きながら、左の掌を相手に向ける。
やるなら全力だ。
自分の魔力がどれだけあるかは知らないけど全部使い切るほど使ってやる。
そう意気込みながら、ラリカは大きく呪文を唱える。
「──光の神の意によって、我の望みを叶えたまえ。プリックリーディアンス!」
ラリカがそう唱えると、ラリカの左手から掌と同じサイズの白い魔法陣が浮かび上がる。
次に、魔法陣の中心に小さな光の玉のような表れ、段々と小さな光が魔法陣の中心に集まっていき、光の玉は魔法陣と同じくらいの大きさに膨れていく。
そして、突如として、光の玉から細く真っ直ぐな線を描くように光が素早く発射され、男の右肩を貫いた。
華奢な男は、突然魔法で貫かれた右肩を抑え、衝撃により少し後ずさりした後に唸りながらその場に蹲った。
背後にいた、ガタイの良い男はその光景に驚きながらも「おい!」と言いながら、華奢な男に駆け寄って行く。
その光景には、男達以外にラリカ本人も驚いていた。
「出来……た…」
「ぐっ……お前…」
華奢な男は痛みに耐え、肩から血を流し、怒りを顕にしながら、ラリカを睨みつける。
相方の負傷、というよりもラリカからの反撃に憤りを感じたのか、ガタイの良い男が喚きながらラリカに黒いボーガンを向ける。
「くそっ!これで終わりだ!」
まずい。
二人目の事を考えていなかった。
動けない状態で、あれを今打たれたらもう避けきれないし、魔法も全力を出してしまった為、もう一度同じ魔法が使えるか分からない。
打たれたら、今度こそ終わりだ。
そう思い、竜(ドラコ)だけは守るように強く抱きしめながら、固く目を閉じる。
「おい!お前ら!そこで何やってんだ!」
不意に聞き覚えのある声が、辺りに響く。
その声に反応したラリカは、ハッと固く閉じていた目を開いて顔を上げる。
男も何処から聞こえたのか、声の主を探しているかのように辺りをキョロキョロと見渡していた。
ふと、崖の上に人影があるのが見える。
人影は巨大化した犬(カニス)の背に乗りながら崖を飛び降り、庇うかのようにラリカと男達の間に着地した。
「魔法士として、人を襲っているところを黙って見ているわけにはいかねぇな」
そう話しながら犬(カニス)から降りた人物は、赤い髪に自分と同じ制服を着ている男子だった。
それに加え、得意げで自信に満ち溢れたような話し方は、ラリカの知る限り一人しかいない。
「カケル?」
カケルはその声に気付き、ラリカの方へと振り向く。
竜(ドラコ)を抱え、地面に座り込んでいるラリカの姿を確認すると、その顔にキョトンと驚きの表情を浮かべた。
「ん?あれ?なんでラリカがこんなとこにいんだ?」
「カケルこそ」
「俺はたまたま出掛ける途中に通りがかったんだよ」
そのまま、ラリカとカケルは男達を放置して話し始めた。
それを隙だと思ったガタイの良い男は、華奢な男に近付き、こそこそと耳打ちをする。
「…おい、立てるか」
「あ、あぁ…なんとか…。今のうちに逃げるぞ」
「竜(ドラコ)はどうすんだよ」
「そんなこと言ってる場合じゃねぇだろ…。とりあえず、今は逃げるだけだ」
「…チッ…」
二人はゆっくりと立ち上がると、ラリカ達に気付かれないように魔法を使い、そっとその場から姿を消した。
ラリカとカケルはそれに未だ気付かずに話を続けている。
「だから二人に襲われてる時にカケルが……ってあれ?さっきの人たちは?」
ラリカが、カケルと、カケルと一緒に来た犬(カニス)の隙間から先程までいたはずの場所を見るが、そこには誰もいなく、男達は既に逃げた後だった。
「あー!いねぇ!どこ行きやがった!おい、クテロ。あいつら何処行ったか知らねぇか?」
カケルはそういうと、隣でお座りをしている巨大な犬(カニス)に話しかける。
クテロはカケルと契約した犬(カニス)で、カケルのベスティアだ。
薄いベージュ色の毛並みに垂れ下がった耳と閉じているかのように見える細い目。
犬(カニス)は古くから火の神に愛されていると言われており、火属性の魔法を得意とする種族だが、クテロはその他に巨大化することが出来る。
カケルがよくその背に乗り行動しているのは、別に珍しくない光景だった。
クテロはカケルの問いに知らないとでも言うように、ただ首を横に振る。
その反応を見て、カケルは少しだけ残念そうに肩を下ろし、ため息を吐いた。
「はぁ…まぁいいか。任務でもねぇし。それよりラリカ。お前が右足怪我してんのも気になるけど、その腕に抱いてんのなんだ?」
カケルが、ラリカの腕の中で息を荒げながら気絶している竜(ドラコ)の子供を、指を差しながら話す。
「あぁ、この子?さっきの二人に追われてた竜(ドラコ)の子供みたい」
「子供ねぇ……ん?竜(ドラコ)の?」
ラリカの言葉を聴きもう一度聞き返すように、カケルは同じ言葉を繰り返す。
「そう竜(ドラコ)の」
「そうって…はぁ!?なんでこんなとこに竜(ドラコ)の子供がいるんだよ!?」
カケルがそう叫びながら、ラリカに迫った。
その声に少し驚き、たじろぎながらラリカは答える。
「…わ、私に聞かれても知らないよ。声を頼りにここに来ただけだから」
「声?……まぁなんでもいいけど、こんなところに竜(ドラコ)がいるんだな…しかもまだ子供だし…。にしても、あいつらによくやられなかったな。俺が来なきゃ今頃お前死んでただろうし。俺に感謝するんだな!」
カケルが自慢げにハッハッハッと笑いながら話す。
こんなに自慢げに言われてしまえば、助けられても台無しだよと密かに思い、ラリカは呆れて小さなため息を溢す。
「はぁ…まぁ、そりゃあ感謝はしてるけど…。でも魔法が使えてなかったら、カケルが来る前にとっくに死んでたかも…」
改めて言葉にすると、自分が危ない状況にあったことに対して、背筋に寒さが走りゾワッと不気味な感覚を覚える。
とりあえず今は、どうにか無事だったことに安堵するだけだった。
カケルはそんなラリカに、またもや疑問を投げつける。
「魔法?お前が使える魔法なんかあんのか?」
「一応使え…たんだと思う。魔法陣も出てたし…。光魔法だったけど」
「光魔法〜?お前がそんな高度な魔法使えるわけねぇだろ。紛れだよ、紛れ」
「そんなことないから!…まぁ、今までが今までだから信じてはもらえなさそうだけど…。きっと努力のおかげだよ!…多分」
「へぇへぇ、お気楽な奴だな」
「…カケルには言われたくないんだけど」
カケルはラリカとそんな会話を交わしながらクテロの元に寄り、クテロの背中に乗っけていた自分の小さな鞄を漁り出す。
紛れ紛れって、私が今生きているのも紛れって言いたい訳か、こいつは…。
ラリカはそんな風に心の中で不満を表しながらカケルをジトっと見ていた。
すると、目当てのものが見つかったのかカケルが「ほれ」と言いながら、何か白い物をラリカに軽く放り投げてきた。
それを手で受け取ろうにも、竜(ドラコ)を抱えていることもあって、上手く取ることが出来ず地面に落としてしまう。
「うわっ!ちょっと渡すならちゃんと渡してよ。怪我してるんだから」
そう文句を言いながら、ラリカは足元に落ちた物を拾い上げる。
よくよく見ると、カケルが投げたものは丁寧に巻かれた包帯のようだ。
「これって、包帯?」
「お前怪我してんだろ。一応、それで止血とか手当てくらいはしておけよ。消毒やらなんやらは俺はよくわかんねぇから、とりあえず巻いておけばいいんじゃね?」
「…ありがとう。いつもこんなの持ち歩いてるの?」
「俺は依頼に行く途中でたまたまここを通ったんだよ。依頼行くなら救急セットくらい持ってて当然だろ」
「あぁ、そっか。……私、この子抱きながらじゃ巻けないから巻いてくれるか、この子抱いてて欲しいんだけど…」
「じゃあ、竜(ドラコ)を抱いててやる」
「そこは巻いてくれないんだ」
「俺だって竜(ドラコ)に触りてぇからな!」
「まぁいいけど…怪我してるから優しくしてよね」
「分かってるって」
ラリカはまたもや呆れながら、竜(ドラコ)をカケルに預ける。
少し流れて出ている血を止めるかのように、きつめに包帯を巻いた。
その間、カケルは腕に竜(ドラコ)をそっと抱き、「でっけぇトカゲみてぇだな~」とか言いながら、一人ではしゃいでいた。
その様子はまるで玩具を貰った子供のように見えなくもない。
ラリカが包帯を巻けたことを確認すると、カケルはラリカに竜(ドラコ)を返し、クテロを撫でながらラリカに話しかける。
「その竜(ドラコ)、傷だらけだろ?今持ってるやつじゃ応急処置も出来ねぇし、学園に連れてってベイリーに見せた方がいいよな?」
「…うん、そうだね。そうする」
「じゃあ、お前怪我してるし、クテロに乗ってった方が早いだろ。後ろ乗ってけよ」
「…へぇ、たまには気が利くじゃん」
「たまにはってなんだ。俺は誰にだって優しいだろ」
「私はムカつく言葉投げられた記憶しかないんですけど」
少しだけカケルに対して文句を言ったが、カケルはそれに対して無視するかのように、何も反応せずに起き上がったクテロの背に乗る。
無視をするってことは、ムカつく言葉をかけていることに対しては自覚があるということでいいんだろうか。
ラリカがそう思うと、より一層カケルに対して不満を抱くが、今は何も気にしないようにすることにした。
クテロの傍に寄ると、カケルが引っ張り上げてやるかのようにラリカに手を差し出すので、その手を掴みながら、カケルの後ろに続いてクテロの背に乗る。
ラリカが後ろに乗ったことを確認すると、カケルはクテロを撫でながら話しかける。
「それじゃ、クテロ。学園までよろしくな」
カケルがそうクテロの耳元に言うと、クテロは返事をするかのようにワン!と元気よく吠える。
その一声が合図だったのか、クテロは一蹴りで崖の上へと飛び乗った。
「ラリカ!落ちんなよ!」
今度はカケルの一言を合図に、クテロは空中を蹴り、空へと駆け出す。
クテロにはもう一つ特技がある。
それは空を駆けること。
実際は空気を踏む際に、瞬時に爆発させるかのように小さく火を出して、その爆風によって空を飛んでいるように見えるだけだ。
そのせいでクテロが空を走るたび、小さくパンパンと爆発音が聞こえるので、ラリカは騒がしい音を聞きながら、学園まで向かうことになった。
──────マーシック学園。正門前。
学園の入り口である正門まで来ると、クテロは正門の前に駆け下り、地面へと降り立つ。
無事に着地したことを確認すると、ラリカはそっとクテロから降りた。
カケルは「俺は依頼があるからじゃーな」とだけ言うと、クテロと一緒にまた空へと駆け出して行った。
ラリカは正門から学園に入り、そのまま正面棟を抜け、ベイリーのいる獣医室へと向かう。
獣医室に着き、ドアを三回ノックすると、中から「入っていいぞ」と声が聞こえ、それを合図にスライド式のドアを横に引く。
中に入ると、ラリカが扉から手を離すと、ラリカの後ろで扉は勝手に元通り閉じていく。
獣医室の端の方に、先程広場で暴れていた虎(ティグリス)が大きいベスティア用の、クッションのようなベッドで眠っているのが目に見えた。
手当てが済んでいるのか、矢が刺さっていた足には丁寧に包帯が巻かれていた。
傍にはパートナーの女子生徒が椅子に座りながらベッドに顔を伏せ、ベスティアと同じようにスヤスヤと眠っている。
「どうした?」
ベイリーの一声で、ベッドの虎(ティグリス)から視線を逸らす。
用件を思い出し、机の椅子に座っているベイリーの元に寄り、腕に抱えている竜(ドラコ)の子供の様子を説明する。
「あの、この子。町外れの森で会ったんですけど、全身傷だらけで…ベイリー先生なら治せるかなと」
ラリカにそう言われ、ベイリーはラリカの腕の中に抱かれて気絶している竜(ドラコ)の様子を見る。
「ほう…竜(ドラコ)か。珍しいな。……ラリカ、会ったのはその竜(ドラコ)だけか?」
「え?いや後は…この子、追われてたみたいで、黒いマントを着た男の人、二人くらいと会いましたけど」
「…怪我は……してるな」
ベイリーはラリカの右足に気付くと、少しキツめに巻かれた包帯を取り、靴下を傷口の見える部分まで下げ、傷口がよく見えるようにした状態する。
傷口に触れないよう手をそっと翳すと、ベイリーは呪文も無しに魔法で傷を治した。
「ありがとうございます。あ、そういえば…一人は魔法士だったんですけど、もう一人が黒いボーガンを持ってて、ボーガンの矢が多分広場で見たやつとそっくりでした」
「…恐らく、昼間の騒動はそいつらのせいだろうな…。故意があったのかは知らんが。確証は無いが、そいつらはフィガラっていう組織の奴らだろう」
「フィガラ?」
「暗殺やら犯罪やらを容易にこなす奴らだ。あまり関わらない方がいい。とりあえず、その竜(ドラコ)は預かっておく」
「あ、はい」
抱えている竜(ドラコ)をベイリーにそっと渡す。
すると、タイミングよく獣医室にノックの音が響き、ドアが「失礼します」という声と共に静かにカラカラと開く。
開いた先のドアには朱色の髪を一つ結びにした女子生徒が立っており、静かに獣医室の中に入ってくる。
肩には綺麗な赤い羽の鳥(アウィス)が乗っており、制服の胸にはラリカと同じシルバーの校章の形をした記章を付けていた。
ラリカはそれを見て、おそらく同じ中級生の女子生徒だということが分かったが、一つ違うのは胸にもう一つ、六芒星の印が入った赤い記章を付けていることだ。
この六芒星の記章は、学園のトップである生徒会の所属を意味している。
女子生徒は、ラリカの元へと寄ってくると、ラリカに向けて話し出す。
「お話中のところ申し訳ございません。ラリカ・シリスタリアさんですね?私は生徒会所属、サラマンダーのアカネ・イフトールと申します。生徒会長、オベロンであるサキト・クルティスがお呼びです」
「え?」
ラリカはキョトンとしながら疑問の声を上げた。
マーシック学園の生徒会は、学園内でもかなりの実力を持った者の集まりだ。
学年は問わず、下級生や上級生誰でも所属することが出来る。
その人数は計五名。
担当の名前はそれぞれ伝説として伝わっている精霊の名前から取っている。
そのくらいには学園内で強い力を持った者たちなのだ。
その中でも妖精王の名前で知られているオベロンは生徒会長である他に、生徒会の中で最も実力のある者として与えられる役職名だ。
要するに、マーシック学園で最も強い者の象徴である。
そんな人から呼び出されているのだから、ラリカが動揺するのも当たり前だった。
けれど、ラリカが動揺しているのを気にもせず、アカネは話を続ける。
「生徒会室までご同行お願いします」
「ちょ、ちょっと待って。私、なんかしたっけ?」
そう問いかけると、アカネはラリカの傍で呆れた顔を浮かべるので、その表情を目の前で見たラリカはビクッとし、たじろいだ。
アカネは小さくため息を吐き、再び口を開く。
「…用件は生徒会室で話します。オベロン様がお待ちですので、お急ぎを」
そう言い残すと、アカネは獣医室から去っていった。状況的に付いていくしかないと悟ったラリカは、ベイリーに「竜(ドラコ)のことをお願いします」と一言だけ言うと、獣医室のドアの前で一礼し、急いでアカネを追いかけて行く。
スタスタと先に廊下を歩いているアカネに駆け寄り、アカネの案内に着いて行きながら生徒会室へと向かった。
生徒会室は、その名の通り生徒会のメンバーが集まる場所である。
先程説明した、精霊の名前が役職として与えられた五名以外は、基本的にこう言った呼び出しや用事がなければ入ることはない。
というよりも、生徒会は実力の持った生徒の集まりとも言える為、生徒は誰も入ろうとしない。
誰しも自分より遥かに強いと分かっている相手に無茶な喧嘩は売らないだろう。
ましてや、学園内で最強とも言われている生徒会となれば、誰だって手を出そうとは思わない。
もちろん生徒会に選ばれるのは実力だけではない。
様々な個性のある生徒達を纏められるほどの人望も必要だった。
生徒会は実力もあり人望もある、そういった者達の集まりなのだ。
そんな人達の、しかも生徒会長のオベロンに呼び出されたラリカの心情は、落ち着かせようにも落ち着くものではなかった。
アカネと二人で夕日の差す茶色いフローリングの廊下を、一言も話さずに黙って歩いていく。
その静かな空間が、ラリカにはより一層重く感じられる。
生徒会室は、教室棟の最上階である四階にある。
その場所に辿り着くまで、この重い空間を感じ続けることとなった。
生徒会室の扉の前までやって来ると、堂々と壁のように聳え立っているかのような扉の目の前に立つ。
扉は両開きの濃い茶色で高級感のある立派なものだった。
この扉の奥に生徒会の人がいると思うと、不思議と威圧感が感じられる。
そんな威圧感のある扉の前で、ラリカは少しだけゴクリと喉を鳴らして、緊張しながら扉が開くのを待った。
アカネが扉を三回ノックし、扉の向こうから「どうぞ」という声が聞こえると、アカネはガチャリと音を立てて、扉の片方だけを開ける。
扉が開き、アカネに誘導されるがまま、ラリカはゆっくりと中へと入って行く。
生徒会室の中は少し広く、中心には少し足の長い楕円形の大きなローテーブルが縦に置かれていた。
その周りには、扉の色と同じような濃い茶色のソファが並んでいる。
正面の一人掛けソファには生徒会長、オベロンのサキト・クルティス。
ラリカから見て、右の二人掛けソファにはノームのロイ・トンキーと、ウンディーネのウイガ・ミリシタン。
左の二人掛けソファには、シルフのシオン・レイカが、それぞれテーブルを囲むように座っていた。
アカネはシオンの座っているソファの、奥側の空いているところに座る。
それを確認すると、サキトは笑みを浮かべながら話を始めた。
「君がラリカ・シリスタリアさんだね?君のことはいつも聞いているよ。確か今日のフライト教授の植物学では、笑う植物を生み出したとか。いつも色々な話を耳にしているけれど、君の話は毎度、実に面白いね」
サキトは、ニコニコと笑顔を崩さずに話す。
もう今朝のことが学園中に広まっているのか……。
ラリカはそう思いながら、授業での失態の恥ずかしさで顔が熱を持ち、自然と少しずつ赤くなるのを感じた。
サキトの楽しそうな雰囲気とは逆に、ラリカの事には全く興味がないとでも言うように、アカネが口を挟む。
「サキト。無駄話は後でいいから本題を」
「はいはい。じゃあ…他人行儀は堅苦しいから呼び捨てで呼ばせてもらおっか」
「あ、はい」
「ラリカ。君は先程、森で二人の男と出会った。との報告があっけど、これは本当かな?」
「え、はい、そうですけど…。えっと…それをどこで?」
「……デカい犬(カニス)に乗った赤髪の男子生徒がわざわざ教えに来た」
ラリカの問いに、眼鏡を掛け、ずっと本を読んでいた黒髪のロイが答えた。
ラリカの方には目も向けず、ひたすらに本と睨めっこしている様子から、アカネ同様にラリカのことにはあまり興味が無いように見える。
カケルのやつ、私が生徒会苦手なのを知ってて言ったな…。
あの時来てくれたのは確かに助かったけど、やっぱりカケルに見つからなきゃ良かった…。
ラリカが内心カケルを恨んでいると、再びサキトが話し始める。
「では、その男二人と戦ったことも?」
「…はい」
ラリカは、少し気まずそうにしながらサキトの質問に答えた。
ラリカにはサキトが何を言いたいのか大方予想がついている。
そして、その予想は見事に的中し、暫くの沈黙の後、次はウイガがラリカの予想通りの話を始めた。
「見習い魔法士以外の学園外での許可無き魔法の使用。そして、魔法を使用して戦闘を行ったこと。この二つは立派な校則違反だな」
ウイガは淡々と少し軽めの口調でそう言った。
そう校則違反。
ラリカの覚えている限りでは、許可をされてない、要するに見習い魔法士以外の者は、学園外での魔法の使用を原則禁止。
また、魔法を使用しての戦闘もまた禁止行為である。
そう言われていたのを思い出す。
見習い魔法士としての仕事ならば許されるが、見習い魔法士でもないラリカが状況が状況だったとはいえ、学園の外で魔法を無断で使用したのは立派な校則違反だった。
そのことをラリカは、生徒会室に来るまで、竜(ドラコ)のことですっかり忘れていたのだ。
「それに一つ聞きたいんだけど、光魔法を使ったって本当!?」
この中で、一番最年少であろうシオンが興味津々かのようにテーブルに手を付き、身を乗り出してラリカに聞いてくる。
「シオン。あれは、間違いって言ったでしょう。この世界の基礎的な元素である風・水・土・火・植物の属性の他に光属性と闇属性の高度な魔法を使える者なんているわけないじゃない。ましてや闇属性ならいるかもしれないとしても、光属性の使い手なんて」
「でもアカネ?ここにいる全員が反応した大きい力の魔法だよ?今までこんな事無かったよ」
「まぁ、とりあえず二人共。本人に聞いてみたらいいじゃないか。どうなんだい?ラリカ」
サキトがシオンとアカネの会話を遮って、再度ラリカに視線を戻す。
嘘を吐こうと思ったわけではないが、サキトの目は嘘を吐いたとしても、すぐにバレてしまうような目をしていた。
彼の生徒会長としての威厳ってやつだろうか。
「えっと…まぁ…一応、多分ですけど、使うことは出来たんだと思います……?」
ラリカの半信半疑な答えを聞くと、シオンは目を輝かせ、「すごい、すごい!」とその場で飛び跳ねる。
「それじゃあ、今ここで使える!?」
「え、今?」
シオンの唐突な発言に、ラリカは驚きながら答える。
今ここで、先程と同じような魔法が使えるかどうかは正直なところ、ラリカには分からなかった。
カケルの前では少し強がって紛れではないとは言ったが、あまりにも唐突な出来事で、ましてや魔法が普通に使えたことも今までに無かったラリカには、正確に使えるという確信が無いのだ。
それに、現状で魔力がどこまで回復しているのか自分でもよく分からないでいた為、尚更、今すぐに魔法を使えるのか答えられなかった。
「確かに、僕らも出来れば君が光魔法を使えるか見させてもらいたいのだけど…。ラリカ、出来そうかい?」
サキトはラリカにそっと問いかけるような、少し優しめな口調でそう言った。
もしかしたら、もう一度やってみれば出来るのかもしれないが、ラリカの覚えている光魔法でも、森にいた男に使った魔法ただ一つだった。
たまたま本で読んだものが、攻撃的な魔法だったのは幸いだったが、ここで攻撃的な魔法を見せるわけにもいかない。
出来ないと言うと、どうなるのかは分からないが、今ここで何もかも未知な魔法を使うのは、あまり良いとは思えなかった。
「えっと…魔法が使えたのは、本当にたまたま図書館の本で見かけたものを試しただけで、自分でも確証があるものじゃなくて…。使えるものも一つだけですし、今ここで見せるのは…ちょっと難しいです…」
ラリカは生徒会の人達の顔色を伺いながらそう話す。
シオンは少し残念そうに落ち込みながら静かに椅子に座り、サキトはラリカの言葉に少し考えるような素振りをしている。
興味津々に聞いてきたシオンに対してだけは、ほんの少しの申し訳なさを感じた。
サキトは考える素振りをやめると、閃いたかのように一つの提案をする。
「それじゃあ、こうしよう。この学園は中級生から見習い魔法士として活動することが出来るのは知っているね?」
「はい」
「見習い魔法士として活動出来る生徒の条件は、魔法が通常通り使えることと、模擬試験を受けて合格すること。君にはその模擬試験を受けてもらおう」
「…え?」
サキトの唐突な提案に、ラリカはつい喉の奥から疑問の声を上げてしまう。
「この学園は魔法士を育成していることもあって、魔法がちゃんと使える中級生以上は見習い魔法士になることが推奨されている。それに模擬試験を受ければ君が光魔法を使えることを僕らは知ることが出来る。もちろん、君が無事試験に合格することが出来れば、見習い魔法士として活動することも出来るし、それに伴って学園の外で魔法の使用も出来るようになる。結構良い案だと思うけど、どうかな?」
サキトは相変わらず笑顔を崩さずにラリカにそう説明した。
確かに、サキトの提案は納得の出来るものだった。
見習い魔法士になる為には、いつかは模擬試験は受けなければいけないもの。
ラリカの中でそれがこんなに早く来るものだとは思っていなかったが、ラリカにとって悪い事では無かった。
他の生徒会のメンバーもサキトの案には文句が無いようだ。
ロイだけは相変わらず興味が無さそうに本を読んでいるので、真意は分からないままだが。
「…私、試験受けてもいいんですか…?」
「もちろん。魔法がちゃんと使えるかは今のところ分からないけど、まぁ試験を受ければ使わなければいけない場面があるだろうし、問題はないよ」
「じゃ、じゃあ試験受けます!」
ラリカは力強く答えた。
魔法の使えないラリカにとって、今までは試験を受けることすら夢のようなことだった。
それをようやく受けることが出来るということは、ラリカにとってそれは成長している証拠でもある。
なので、元から試験を受けるかどうかの迷いなんてラリカには無かったのだ。
サキトはラリカの返事に笑顔で言葉を返す。
「それじゃあ決まりだね。試験の日時なんかはこちらからまた声をかけるよ」
「はい!」
「それと喜んでいるところ悪いけど、校則違反した者にはちゃんと罰を与えることになってるからね」
「う…はい…」
サキトの言葉を聞いて、ラリカは上機嫌だった気分が一気に下げられたような気持ちになる。
仕方のない状況だったとはいえ、やはり違反は違反なのだ。
ラリカは少し落胆しながら、サキトの言う罰とやらがどんなものなのか言葉を待つ。
「まぁまぁ、そんなに暗くならないで。牢獄に入れたりするわけじゃないんだから。魔法を使ったとき、危険な状況だったということもちゃんと考慮して…そうだな…。君への罰は、連れてきた子供の竜(ドラコ)を育てることにしよう」
「え?」
サキトとロイ以外の全員が驚きの声を上げ、目を丸くした。
サキトが何処で竜(ドラコ)の子供のことを知ったのか知らないが、生徒会のほとんどの人が同じ反応をしているということは、ラリカが竜(ドラコ)を学園に連れて来たことは全員が知っているようだ。
「そ、それって…。拾った竜(ドラコ)の子供の保護者になれ…ってことですか?」
「うん。一時的にだけどね」
サキトは軽くラリカにそう答えた。
流石のロイもサキトの提案には疑問があるのか、ようやく本から目を逸らし、サキトに問いかける。
「おい、サキト。それは、ベスティアという関係と同じ状況になるんじゃないか?契約していない種族をベスティアにするなんて聞いたことないぞ。それにこいつが連れてきたのは竜(ドラコ)の子供だ。そんな希少な存在に何かあったらどうすんだ。すぐに故郷に帰すべきだろう」
「本当はそうしてあげたいところなんだけど、そういうわけにもいかなくてね。みんなも知っているだろう?竜(ドラコ)の故郷は他の種族と違って誰にも知られていないんだ」
確かにサキトの言うとおりだった。
竜(ドラコ)の故郷はどの本にも載っていなく知る人は誰もいない。
それ故に竜(ドラコ)が希少な存在なのか、それとも希少な存在だから故郷が知られていないのか、それすらも分からない。
竜(ドラコ)の存在そのものは知られているものの、竜(ドラコ)について知っている者は誰もいない。
だからこそ、ラリカの連れてきた竜(ドラコ)の子供が何故ここにいるのか不思議だった。
子供ではなく成熟した竜(ドラコ)ならば、誰かのベスティアである可能性も僅かながらあったかもしれない。
しかし、子供なら尚更故郷から出て、ここにいる理由が分からないのだ。
「出来れば他の人に見つからずに、今すぐにでも帰してあげたいけれど、僕らは竜(ドラコ)の故郷を知らない。帰してあげたくても帰すことが出来ない。なら探すしかない。竜(ドラコ)の子供がいるのなら、恐らく故郷が存在するのは確かだと思う。でも、知られていないものを探すのはかなり時間がかかる。すぐに帰してあげられる保障はないから、帰れるようになるまで誰かが世話をしてあげなきゃいけないだろう?」
「……だから、ベスティアのいないこいつが一番合うってことか…。学園にいるやつらは初級生の一部の子供達以外は大体ベスティアがいるから、丁度良い適任はこいつだけってことか…」
「そういうこと。まぁあとは、ラリカがあの竜(ドラコ)を連れてきたのだから連れてきた責任というのもあるだろう?」
「…サキトがそういうなら、俺は賛成だ」
ロイはサキトの説明に納得すると再び本に視線を戻し、賛成の意を示すように片手を挙げる。
「他の二人も賛成のようだけど、ウイガはどうする?」
シオンとアカネも納得したようで、ロイと同じように手を挙げていた。
ただ一人、手を挙げていないのはウイガだけである。
ウイガは、生徒会の全員を見渡した後にサキトの見つめてくる目を見て、何の反論も思いつかなかったかのように、諦めのため息を吐いた。
「はぁ…しょうがねぇな」
どうやらウイガもサキトの提案に渋々賛成したようで、スッとゆっくり片手を挙げる。
サキトは生徒会全員の気持ちが揃ったことを理解すると、再びラリカに視線を戻した。
当のラリカ本人は、いきなりの展開にあまり頭がついていけていないようだった。
「それじゃあ、ラリカ」
「は、はい!」
「ベスティアになる種族はある程度成熟していないと召喚されない。それは子供のままだと危険が伴うのと、いざ何かあったという時に自分の故郷へ帰ることが出来ないからだ。しかし今、竜(ドラコ)の子供が何らかの状況で故郷から離れている。君は、竜(ドラコ)の子供が無事に帰れるようになるまで世話をしてあげること。それが君への罰だ」
サキトから分かりやすく長い説明を聞き、ラリカはそのことに対して質問で返す。
「えっと、つまり…竜(ドラコ)の子供が大人になるまで世話をしてあげるってことですか?」
「あはは。まぁ、それで竜(ドラコ)が自力で故郷に帰れることが出来るのならそれが一番良いけれど、子供の竜(ドラコ)が故郷を覚えているかも分からないし、流石にそこまで育てるのも無理があるだろうからね。こちらで帰る場所と方法を探しておくよ。それまでは、君に竜(ドラコ)の子供を預けるってことだ」
「…わかりました」
ラリカは未だ頭の中の整理が出来ておらず、思考が中に浮いているような気分のまま返事を返す。
自分が竜(ドラコ)を育てる…?
ベスティアが欲しいと思ったことはないと言えば嘘になるが、まさか自分が竜(ドラコ)とベスティアに似たような関係になれるとは思わなかった。
嬉しいという気持ちの他に、自分に出来るのだろうかという不安が強くあった。
サキトはそんなことはいざ知らず、話を終わらせるかのように一度パンッ!手を鳴らす。
「それじゃあ、これでとりあえずは解決だ。僕らはもう君に話すことはないけど君は?」
「…いえ、ありません…。失礼します」
ラリカはそういうと、扉を開け、一礼してから、生徒会室から出て行った。
生徒会室の扉が閉まると、ラリカは扉の前で大きな溜め息を吐きながら、しゃがみ込む。
「はぁ~~~~~…。なんか、大役任されたような気分…。名目上はベスティアってことでいいのかな…?見習い魔法士の試験も受けることが出来て、ベスティアも出来て、嬉しいことなはずなんだけど、それよりプレッシャーの方が大きいよ…。私に竜(ドラコ)の世話なんか出来るのかな…。……はぁ…」
ラリカは一人呟きながら、廊下の真ん中で蹲った。
ラリカが出て行った後、沈黙が続く生徒会室の中でアカネがラリカとの会話についてサキトと話す。
「サキト。彼女は光魔法を使用したと言っていましたが、本当だと思いますか?」
「あぁ、恐らく本当だろうね。彼女の目を見ていたけれど、揺らぎはなく、嘘を吐いた様子は無かったよ」
「そう……」
サキトの答えを聞いて、アカネが心配そうに呟いた。
サキトは、少し疲れたように天井を見上げ、ソファに沈むように深く座り込んだあとに、一人呟く。
「…ふふ…。光魔法に、竜(ドラコ)の子供か…。面白いことになりそうだ」
これから起こりうる出来事に、僅かな楽しみを抱くかのように、笑顔の表情を浮かべた。